広島市西区三滝のお寺「紫雲山 光照院 誓願寺」

誓願寺の歴史

安楽庵策伝

安楽庵策伝

広島誓願寺の開祖である安楽庵策伝上人は、戦国時代の天文23年(1554)に美濃の国の金森定近(土岐可頼)公の子として誕生された。兄の金森長近公は初代の飛騨高山の城主である。

永禄3年(1560)7歳の頃、美濃浄音寺の策堂文叔上人について得度出家された。 幼い身で出家されたのは、上人のお母さんは金森定近公の正室の子でなく、側室の子だからとも言われている。

11歳の時に、京都東山の禅林寺(永観堂)で甫叔上人に師事して修行を積まれた。 学成って25歳 (天正6年)に山陽地方へ布教の旅に出られ、備前、備中、備後、安芸の各地で盛んな教化活動をされた。当時の旅の僧は布教活動だけでなく、各地を渡り歩いた情報を、それぞれの領主に提供しては子厚い供応に預かったようだ。それも並みの僧ではそれほどの供応も無いだろうが、策伝上人や安国寺恵瓊といった傑僧は大切に処遇されたに違いない。

こうして策伝上人は西方寺(広島県比婆郡東城町)、全政寺(同、西城町)誓願寺(倉敷市阿知)、法然寺(同、浜町)、極楽寺(同、阿知町)、大雲寺(岡山市表町)を次々に創建、又は再興された。
広島の当誓願寺の建立にも力を尽くされて、茶室や「安楽庵釜」を伝えられた。 文禄元年(1592)には和楽に入られ、同3年、41歳の時に正法寺13世となられたが、慶長元年(1596)には故郷の美濃浄音寺に帰り、同寺の25世となり、ここで17年間を過ごされた。
凡人ならそのままこの故郷に納まるであろうが、戦国乱世の修羅場を潜ってきた策伝上人にはそれは堪え難い事で、其から美濃の立政寺にも暫く住まれ、京都の大本山誓願寺の55世法主に就かれたのは慶長18年(1613)上人60歳の年であった。

誓願寺に落ちつかれた策伝上人は、御水尾天皇の勅命を受けて宮中に参内し、清涼殿で「観経曼陀羅」を御進講されたが、まことに弁舌爽やかに「観無量寿経」の主旨を説いて、居ならぶ堂上貴紳たちを感動させられたのである。 また、京都所司代板倉重宗公の依頼を受けて、説教話材料集の「醒睡笑」8巻を、9年の歳月をかけて元和9年(1623)70歳の時に完成された。

古稀を迎えられた策伝上人は、誓願寺の境内に塔頭、竹林院を建ててここに隠居され、竹林院の庭に建てた茶室「安楽庵」で、波瀾の前半生とは違った風雅な余生を送られた。「安楽庵策伝」という呼称はここから出ている。
竹林院に隠居されてからの策伝上人は、寛永元年(1624)から18年間にわたって茶室「安楽庵」に風流の人士を招き、茶道や文筆に親しんで優雅な生活を楽しまれた。

寛永7年、77歳の時「百椿集」一巻を上梓している。 また交友関係も広く前の関白、近衛信尋、小堀遠州、伊達政宗、林羅山など、皇族、公家、高僧、文人、大名、豪商、学者等々各界の一流の文化人たちとの交流は、見事なまでの華やかさである。これ等の交遊を、多くの和歌や狂歌を含めて「第伝和尚送答控」(後人題)を書き残された。
そして、寛永19年(1642)正月8日に89歳の長寿を全うして、入寂された。
現在、京都誓願寺墓地には、策伝上人の立派なお墓があり、生前の余薫が馥郁としてただよって上人の偉大なご偉徳をしのぶ事が出来る。

策伝上人は、誓願寺の御法主にまでなられ、紫衣の勅許を得て、後水尾天皇に経典のご進講をされたほどの高僧であるが、茶人としても名高く「安楽庵裂」、「安楽庵八窓亭」、「安楽庵釜」の名とともに茶道史上でよく知られている。また、「醒睡笑」、「百椿集」、「策伝和尚送答控」などを書き残されたため、国文学界でも高く評価されている。

「安楽庵策伝」の名声を最も高めたものは、「落語の祖」という評価を後世の落語界から贈られた事である。これは策伝上人が浄土宗西山派の説教僧として、長年話し続けられた説教話材(落としばなし)(落語)を実践された成果に依るものと思われる。 「醒睡笑」8巻の中にはそのような笑い話が、千幾つも集められていて、巧みに分類されている。

小僧が、夜更けに長い棹を持ち、庭の中をあちらこちらと振り回している。坊主がこれを見つけ、「何をやっているのだ」とたずねた。
「空の星が欲しくて、打ち落とそうとするが落ちない」「さてもさても鈍な奴だ。そのように工夫が無くてどうするのか。そこからでは棹が届くまい。屋根へあがれ」

有名なこの話は巻一の鈍副子の中に収められている。この分類は、説教の種本として最適であり後世の落語の種本にもなっている。
明治の落語界で近世の名人と言われた三遊亭円朝は「落語は安楽庵策伝から始まった」と述べている。更にそれ以前の江戸時代には月亭生瀬、山東京伝などが、「安楽庵策伝は不世出の話上手だった」と広く世に紹介している。 「醒睡笑」には、あらゆる種類の滑稽談が含まれており、落としばなし(落語)が多いが、決して笑いばなしばかりでなく、教訓、啓蒙的な真面目な話も入っている。これは説教の話材を集めたものであるから当然である。

この本を読むと改めて策伝上人の博学ぶりにはおどろかされる。「説法眼論」、「今昔物語」、「袋草紙」、「宇治拾遺物語」、「古今著問集」、「沙石集」、「元亨釈書」などの多くの仏教説話集から取材したもの、策伝上人みずから見聞された各地の逸話、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、を始め諸侯の行状、さまざまな民間説話、風俗、芸能が網羅されて、日本文化史の研究上に豊富な資料を提供されている。 策伝上人は生まれながらに弁舌爽やかで、博学であり、行動力も抜群で各地に寺を建立された背景には、美濃の国に千石余の領地を持つ実力者でもあったからである。 宗門最高の地位に進まれながら、「落語の祖」と言われるのは、一見矛盾するように思われるが、説教者(教化僧)という立場は、常に民衆と密着するのが根本であり、一方では所属宗派の教学の構成に繋がりながらも、それをみずから更に新しい認識方法を樹立して行くものである。

策伝上人は、その方法で「醒睡笑」を書いて戦国僧の教化の実態を示され、また、曼陀羅講説の宗匠として、立派に誓願寺法主としての使命を果たされたのである。