広島市西区三滝のお寺「紫雲山 光照院 誓願寺」

誓願寺の歴史

誓願寺境内案内

昭和38年(1963)5月3目に現在の広島市西区三滝本町に再建された誓願寺境内には、毛利元道寄進の昭和天皇お手植えの松や法然上人お手植えの誕生寺銀杏、五つ子の名付け親で有名な京都清水寺貫主大西良慶和上ご染筆の門柱、被爆した水盤石と釣灯篭、佐東町原爆供養塔、そして上田宗箇の長女田辺殿の位牌や四代目宗箇松がある。


墓地・佐東町精霊供養塔

佐東町精霊供養塔

誓願寺墓地には、佐東町原爆供養塔がある。
安佐郡川内村から500余人が爆心地より約400メートルの材木町へ建物疎開作業に出動していて被爆し、ほとんどの人が死亡したものと推定される。
川内村の人たちの休憩所であったことなどから、誓願寺へ昭和26年に建立された。
昭和40年に移転の為、誓願寺三滝墓地へ移されている。

昭和20年8月6日、当時中島新町(現在の平和公園内)慈仙寺鼻近くの誓願寺本堂前に集合した義勇隊員は、点呼を終え作業開始準備をしていた所、8時15分原爆の投下により、一瞬に焼きだされ、元安川方面に投じた。
その後、有志が誓願寺焼跡に木の墓標を建て、犠牲者供養のため、昭和21年からこの誓願寺焼跡で慰霊祭を実施された。 誓願寺においては、現在のトヨタカローラ広島の場所の焼跡に仮本堂を建立し、墓標もその場所に移したが、後しばらくして誓願寺独自で墓標を石塔にかえ、新しく墓を建立した。 したがって以前の墓標は有志により、川内小学校校庭に移されたのである。
以後、毎年誓願寺まで慰霊祭を実施して来た。その後、誓願寺が三滝山に移り、本格的に本堂を再建し、その際、石塔も誓願寺墓地に移設、現在に至っている。


昭和天皇お手植え松

昭和天皇お手植え松

昭和38年本堂落慶の際に、防府の毛利邸近くの松を毛利元道当主に寄進頂き移植された。

誕生寺銀杏

誕生寺 銀杏
銀杏の垂乳
銀杏の垂乳 2020年2月撮影

原爆13回忌の昭和32年に岡山県美作の誕生寺住職が植樹された。

天然記念物の銀杏は法然上人15歳の時お手植えで、二代目銀杏である。 樹齢50年を過ぎ枝の各所に垂乳と云う乳が垂れ下がった様になった巨木である。

宗箇松

宗箇松
宗箇松 2020年2月撮影

広島浅野藩の家老の上田宗箇が、広島城に近い居所に作った和風堂という茶屋からの借景として選び、山頂に赤松を植えたことから宗箇松と呼ばれる。

明治維新後に、落雷を受けて枯死した。 二代目の松も戦争中に敵機の目標になるとして伐採された。その後、三代目の松が植えられたがマツクイムシで枯死した。

平成10年に四代目として植樹され県林業技術センターの広島スーパー赤松5本の内の1本である。
宗箇山の宗箇松の弟松とも呼ばれている。