広島市西区三滝のお寺「紫雲山 光照院 誓願寺」

誓願寺の歴史

無得幼稚園

無得幼稚園 集合写真

無得幼稚園は明治44年10月、僧籍を持つ中村桂堂さんが誓願寺境内に創立した。

誓願寺は広島で一、二の大規模な寺院で、約1万6000平方メートルの境内には書院や鐘楼、茶室もあった。特に大きかった山門は、高さ12.7メートル、幅9メートル。広島っ子は、大きなもののたとえに「誓願寺の門のように」とよくいったものだ。池にはたくさんの亀が泳ぎ、いたるところで鳩が群れた。市民の憩いの場となっていたそんな境内の北端に、平屋建ての無得幼稚園はあった。

無得幼稚園 遊戯会の様子

玄関を入ると、畳敷きの大広間。次の部屋は板の間の講堂。ピアノが置かれていた。園児は年長組と年少組合わせて3、4クラス、約120人。保母さんは4、5人いた。

白いエプロンが制服がわり。円障を組んでタンバリンをたたいたり、縄跳びのひもを結んで汽車ごっこ。
年に2回、境内でお遊戯会が開かれ、園児らが毎日練習した歌や踊りを披露。幼稚園の前は、声援を送る父母らで埋まった。

誓願寺は、広島の教育界に大きく貢献した。
明治24年から7年間、袋町小学校の分教場として、明治33年からは市立商業学校(現県立広島商業高校)の仮設校舎、明治41年には進徳学園の校舎として、伽藍を提供している。そして無得幼稚園へと移るのだ。

昭和16年、太平洋戦争が勃発し、本堂は宇品から大陸へ出兵する部隊の宿舎にあてられた。
寺の離れに第五師団の石田義顕団長が住み、毎朝、部下が馬を引いて迎えに来た。子どもらは登園すると、すぐに講堂に正座し、保母に合わせて「○○できるのも、兵隊さんのおかげです」と唱和を繰り返した。

昭和18年、県からすべての幼稚園に「戦時保育所」 に切り替えるように、との通達が来た。午後4時、5時まで保育ができる戦時保育所のほうが、銃後の母親らも心おきなく働ける、という発想である。乾パンなどの配給も、保育所に厚く、幼稚園にはとどこおりがちだった。
昭和18年秋ごろから、農村部へ疎開する園児が続き、とうとう閉園に追い込まれた。
そして昭和20年8月6日、広島に原子爆弾が投下される。第24世願空準弘上人は遷化され、夫人も亡くなられた。大きな山門も、本堂、庫裏もすべて灰となった。

戦後、無得幼稚園はついに復興することはなかった。
戦前、十数園あった広島市内の幼稚園のうち、被爆後再興されたのは4園を数えるのみである。